クリスチャンでもないのにという不思議な行事が日本のクリスマスで、会社勤務をしていた三十数年はその日が最高の繁忙期ということでクリスマスというものを人並みに過ごしたことはなかった、退職しやっと時間がとれた今年こそ二人でクリスマスを過ごそうと言うことに。
どういうクリスマスをと思いついたのがキリシタンの城をめぐろうであった、山手線の広告でクリスマスツリーの城があるということを知ったのも一因である。
しかし年の暮れで繁忙期に違いはないので28時間の駆け足攻城とはなった、長崎空港利用といえば先ずはキリシタン大名大村氏の大村城、そして島原と言えばキリシタン大名有馬氏の原城と日野江城、原城は島原の乱の城でもある、そしてイルミネーションの島原城。
少々おごった旅でしたが思いがけないXマスプレゼントをいただいたのが原城と日野江城、発掘の結果を知ることができ情報を沢山得ることができたからである。
大村氏は伊東マンショ(都於郡城伊東氏の人)らの少年使節をローマに送ったりキリシタン大名として有名ですが、994年にこの地に来てから維新までこの地に続いたというのは驚きである。
鎌倉期にこの地に来て本拠を大村館に置くものの外からの勢力に備え幾つかの城を点々と移っている、三城城を築いた頃が全盛で、かつキリシタン大名として名を馳せた頃である。今回は大村城のみ寄る、キリシタンから転向し維新まで継続できた時期の城で倭城築城経験後1599築城の三方を海に囲まれた城。
波止石
御船蔵など海の遺構
大手門近く
板敷き櫓
原城は松倉氏が石垣も建物も島原城へ持っていったと通説だったが、厳しい城割りはしていなかった、一揆が占拠した時は石垣もあったし建物もあったことが発掘でわかったそうです、そして乱後の破壊埋没は凄まじかったと。
何回も折れた倭城風
本丸の石垣
池尻口の虎口
発掘中の本丸虎口は
原有馬氏は未完成という通説だが遺物から完成し使われた、本丸の中に占める虎口の面積が半分近いなど倭城後その築城技術が見える、二の丸三の丸は中世の土のままで、有馬氏の湊の口之津や城下方向に見せる本丸のみ石垣だったなど発掘でわかったという。
キリシタン花十字紋瓦
城内から見つかった花十字紋瓦は前日に新聞発表された新事実
二の丸は中世の土の城
口之津方向が見える
天守?櫓台は見せる意識
日野江城は有馬氏の本拠、この辺は棚田百撰で選ばれるような段々畑の多い耕作に不便な土地です、その代わり有馬氏は口之津という天然の良港を直轄していた、口之津は長崎半島と天草の間を抜け海外とも直結できる湊でした。
二の丸は倭城頃の織豊の石垣
日野江城は石垣から文禄慶長の役の合間に織豊の城に改造されています、特筆するのは安土に匹敵する百メートルの階段でしょう、階段の石には五輪塔が使われています、キリシタンだからとも言いますが織豊の城では普通のことです、しかし階段脇の石積が野面でなく方形に切った石なのは要注意です、海外技術ではないかと現地案内板には書いてあります(有馬氏時代に原城もでき、切込はぎ技術前に松倉氏が捨てた城ですから)充分考えられることです。
金箔瓦
通説と違い秀吉と近かったのか、現地説明板の写真です。
山上の本丸は中世の姿です
写真は全てクリックで拡大します
階段遺構
階段石は五輪塔脇の石積の方形に注意
階段遺構は本丸へまっすぐ
本丸から原城方向
幾つか身の程知らずの城を見てきたが、ほとんどど平地のない島原でこんな巨大な城をつくれば一揆がおきるのは必定でしょう、前任の有馬氏は交易ができたがそれも厳しくなりつつあるときですし、松倉氏が実力より家康に取り入る方が上手かった人という通説が本当ならなおさらです、とにかく堀も櫓も四万石に余りにも不相応の立派な巨大城です。しかし城下町は残っている石の塀の多さと共にあまり観光ズレせず良い風情を残しています。
キリシタン地方、故にXマスの電飾、さすれば観光の目玉、という三段論方に脱帽、層塔型の天守だからできるのでしょうが天守をクリスマスツリーに見立てる発想はだれが考えたのだろうか、諸々評価はさて置き美しかった。